相良吉三郎

概要)                                 古
 今日、日田杉林は日本三大美林の一つに数えられるがその基礎つくりに尽力したのが吉
三郎である。吉三郎は日田で材木商を始めたが、杉の需要が多くなってくると杉苗の仕立
てから育成、伐採までの山の作業の改革を図り、日田の林業を発展させた中心人物、林業
功労者である。

(文献)
 生没不明,享保(1716)一明和(1764)の頃活躍
 広円寺に相良家累代墓,法名不明

 相良氏は初代吉三郎が天和2年(1682)姫路から日田に転封となった松平大和守直
矩に随って来て松平氏が白河に移った後も留まって田島に居住した・二代目が九郎兵衛,
三代目がこの吉三郎で後に竹田村に移り住んだ。
 今日,日田杉林は日本三大芙林の一つに数えられるが(秋田,吉野,日田)その基礎つ
くりに尽力したのが吉三郎である。
 当時日田の山々は,原生林におおわれ竹や,薮,雑木林,小松山であった・相良家文
書によると初代吉三郎は日田で竹を中心とした筏を組んで,筑後川を下し,これを川下の
地方で売る材木商を始めた。
 三代目吉三郎の頃になると材木としての杉の商品価値が高まり需要が多くなってきた0
そこで,生産が計画的に行われる様になり,杉苗の仕立てから,育成,伐採までの山の作
業の改革が図られ,日田の林業を発展させた。
その中心が三代目吉三郎である。享保19年(1734)日向の奈須山(現,椎葉村)で
大規模な山林作業が行われる事になり,先進地の備前から牛窓五郎左衛門という者が大勢
の山子を連れて実地指導に来た。これを知った吉三郎は,入江村(現北友田三丁目)から
藤六,甚兵衛ともう一人の兄弟三人を見込んで呼び寄せ,奈須山に入って,新しい山林の
技術を習い,体得してくる様に命じた。
 藤六兄弟は二年間に「杉の差し穂,根伐れ(ねぎれ)りんかけ,山出しの方法,道具の
使い方など,山林作業全般を身につけて,兄二人が帰ってきた。吉三郎は,山林作業に適
した者を撰んで,藤六らについて学ばせて,実行させた。
 又,筑後川の筏流しは材木運送の重要な方法であったが,しかし,他領内を通る事から,
色々な問題,難問が続出した。しかしながらも,日田名物筏流しは,戦後の夜明けダムが
できるまで続いた。

出典
歴史上の人物ホームページ